娯楽と芸術
2003 年 8 月 6 日 水曜日ゲームが芸術である前にエンターテインメントであることは間違いない。もちろん芸術作品があってもかまわないが、映画と違ってそういう作品が商売になるほどゲーム市場は未だ成熟していない。
まだまだ「映画みたい」とか言って喜んでいるくらいだから例えば文学的なもの、前衛的なものが登場するのは当分先であろう。誤解のないように言っておくが、娯楽より芸術が高級だとかそういう幼稚な基準で論じているのではない。あくまで多様性についての話であるから念のため。
そもそも何かの型にはめたり分類したりするのは評論家の仕事であって、作り手がそんなことを意識してはいけない。もちろん今創ろうとしているものに娯楽要素がどれくらいあって、どれくらい受ける要素を持っているのかを予測し判断することは可能だが、それはあくまで創りたいものの結果が外部からどう評価されるかという問題であり、「俺は芸術作品が創りたいのだ」などという発想は「結婚」が目的で結婚相手を探すくらい本末転倒でハゲたことである。また、よく企画書に「なんとかシステム」とか書く人がいるがそれはキャッチコピーであって仕様ではない。まだ創ってもいないものの命名にこだわるなどという格好悪い真似は止めた方がいい。
昔、音楽を担当したスーパーファミコンの「闘牌伝」というゲームががぼくにとって最後の「芸術作品」であった。麻雀ゲームだというのにBGMに変拍子や不協和音をふんだんに盛り込んだ、むちゃくちゃな作品である(笑)。もっともその動機が、誰も理解できない難しいことやるのがカッコイイなどという、絶対的価値ではなく相対的に何かと比較することでしか自分のアイデンティティを維持できない若い時にありがちな実は極めて俗物的な思考に基づくものであったため、結局はその志の低さと奥の浅さが露呈し、たいして話題にもならなかった(ただ自分としては今でも大好きな作品のひとつではある)。
「闘牌伝」でやりたいことやり尽くしたせいか、それ以降はエンターテインメント性について深く追求していくようになる。お陰でクリエイティブのベクトルが内側ではなく外に向くようになり、お客様一人ひとりに向けて発信しているのだという自覚が生まれるようになった。すでにプロとしてやっていながら気付くのが遅すぎるけどね。
ユーザーに受けるもの(=売れるもの)を創作するのは非常に難しい。今何がユーザーに求められているのかを把握するマーケティング能力は商品を創っている以上は大変重要になってくる。しかしそもそも「ユーザー」とか「一般の人たち」とは何だろう。作り手自身が「ユーザー」とか「一般人」ということを口にするとき、大概それは「おれは一般人とは違う」とか「おれはその括りの外にいる」などといった無意味な優越感だったり、主観の域を出ない勝手な推論のレベルでしかないことが多い。
ユーザーの思考の動向を探るのはある程度重要ではあるが、「ユーザー」なる概念が我々にとっていかに曖昧な幻想に過ぎないかということをまず自覚した上で、何より、自分自身がトレンドリーダーとなるべく自信を持ってクリエイティブに取り組むことが重要である。ファッションデザイナーが「今流行っているもの」を真似て商品を創っても、それが世に出る頃にはもはや誰も買わない。ゲームも一緒なのだ。
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